もし貴方が恋人にプロポーズの場所として、海と山の両方を見わたせるところに立ったら、どちらの方を眺めながら愛の言葉をロにしますか?
多分九十九%海(水面)の側を見ている菩です。
嬉しい時、悲しい時、悩んだ時、人は無意識の内に水辺へと向かいます。
何故?
女俳の太地喜和子が溺死した時に、泳げない彼女が酔って水に近づいた行為を放送作家の永六輔が、こう推測しました"人間の遺伝子の中には、太古は魚類だった頃の記憶が意識の深層にあって、喜怒哀楽の様々な感情が交錯して彼女を水辺に導いたのです"と。
およそ人類の文明は大きな川のほとりで発生し、水路をたどって伝播していったことは小学校の社会で習われたでしょう。
日本においても文化のいしずえは「水」でした。
中国の内陸都市を真似た奈良から日本独自の水都京都へ都を移して以来、倭から日本へ一千年の古都として京都文化圏は広がっていきました。
その東の端に在るのが私たちの街【桑名】です。
雄大な木曽三川が京と東国を分けました。
昔の桑名とはどんな街だったのでしょうね。
つまり桑名のアイデンティティーとは何でしょう?
ここで又、クイズめいたお話しになりますが、同じく小学六年生の問題です。
中世日本で大名や武士の支配を受けずに、市民が自由に都市経営を行っていた町を挙げなさい。
と聞かれた貴方はどの町の名を答えるでし上う。
正解は堺、博多、そして貴方は桑名もその中に入れましたか?
これら自治自由都市はそのほとんどが生産ではなく、交易で経営されていました。
つまり人・物・金・情報の流通がその自治を成り立たせていたのです。
当時の日本は大部分が農村あるいは農村的都市ばかりで、この自治都市が成立するには多分に地勢学的な条件に恵まれないと不可能でした。
大河の河ロと港・幾つも集まる街道・後背部の大平野等々、それはそのまま首都の機能のミニチュアでもあります。
現在、首都の移転が話題になっていますが、岐阜や栃木にはこの絶対条件がありません。
関東平野(東京)と濃尾平野(東海)大阪平野(関西)以外に首都は存在できず、依然として東京にまさる首都はないのです。
さて桑名市は三十年にわたって総合計画を企画してきました。
現在最終年に入っているのが、水と緑と文化の街をキャッチフレーズにした第三次総合計画です。
しかし幸か不幸か想定人口等の目標は達成していません。
私はこれら三次の総合計画が前に述べた自然の摂理や桑名の歴史から考えて間違いだったと断言します。
それは現在の桑名市の状況をみれば明らかなように、空洞化していく旧市街と一体感の無い丘陵住宅団地、税収の不足と高まる公債比率、その結果としての貧弱な公共施設等、インフラの未整備、外部大資本による消費の流出、つまり街が滅びかかっているのです。
大量の森林伐採を前提にした大山田の住宅開発は、環境保全の立場からも、都市経宮の立場からも、水を汚し、緑を壊し、文化を絶やす、総合計画だったのではないでしょうか。
では桑名には明るい未来はないのかというと、決してそうではありません。
元々持っている街の素質、素材からいえば桑名はど恵まれたところも珍しいのです。
およそ世界を見渡して、理想的な都市を想像すると、まず第一に先進国で温暖な国、自由と安全が確保され、首都に陸路二〜三時間の、首都ほどでもない大都会から同じく陸路三十分ほどの位置にある、人口十万人位の海と山に恵まれた、文化度の高い小都市がそれに当たると解説したのは以前桑名市が招いた望月某という講演者ではなかったですか。
もっとも彼は"場所は最高、街ほ最低"と結びましたがね。
さあこれから桑名の明日を夢見てみましょう。(西暦二十−世紀のある日)まず住吉浦から船出して揖斐川を逆上ると、すぐ右には長良川河口堰が見えます。
名女優水谷八重子をして泉鏡花の名作「歌行燈」の再現を不可能にしたと嘆かせた遺物も、リサイクルが徹底した今日では不要になり、取り壊し案も出ましたが、国道一号線の新伊勢大橋が朝夕混雑してきたためゲートを撤去し、揖斐川に釣橋を追加して一号線バイパス橋として運用されはじめました。
その便利さに地元では何故最初から橋の機能を持たせなかったのかと、前世紀のお役所仕事を馬鹿にする声がしきりに聞こえてきます。
この大垣に至るリバーラインは「芭蕉の水路」と呼ばれて学生や研究者、アウトドア愛好家に好評で休日は臨時便がでるほど大人気。
真冬も墨田川の屋形船とならんで雪見酒の隠れた接待用に名古屋の財界人がよく利用します。
桑名の芸妓は市の伝統文化育成補助を受けて準公務員としての資格を持つため若い女性の就職先として県外からも応募者多数とのことです。
今度は逆に長島温泉に向かって船が出ます。
順調に発展してきた長島温泉も一九九〇年代から特に休日の陸路が完全にパンクして、バスや自家用車の渋滞は数時間。
そこで桑名市のプランで桑名港から長島温泉まで水上交通路が開設されました。
団体パス旅行客以外はJR快速か近鉄特急で桑名駅に降り、これ又六十年ぷりに再開通したギネス認定世界最短路面電車で港に向かいます。
日本に鉄道愛好家は大勢いるらしく、この電車に乗ることだけが目的の観光客も多いのです。
六華苑は野外音楽会などの催し物があるとき以外はビヤガーデンやカフェテラスとして営業をはじめ、川口・江戸町・本町と続く飲食街は明治大正のムードでリニューアルされ、伊勢の「おかげ横町」や金沢の「東の廊」より本格的と評判です。
こうして甦った旧市街をルネサンス桑名と呼ぶ人も出てきました。
次にもっと大規模な桑名の未来を計画してみましょう。
桑名にはまだ大山田に匹敵する開発余地が残っています。
それが名四国道二十三号線上り海側の城南地区全域の高度開発です。
第二名神高速のインター位置まで決定している現在、名古屋から十五分のウォーターフロントで農業を続けねばならない理由はありません。
汽水域に生まれ、育まれ、中近世史の中で輝いていた水郷水都・ラグーンシティ桑名の二十一世紀復活計画、ラグーンシティ計画の誕生です。
そのコンセプトは、東京湾臨海副都心に代表される日本型ウォーターフロント開発、すなわち産業先行型、オフィスビル郡の建設・港湾物流基地併設型という職→住→遊の順列を持つタイプとは異なった、欧米型のアメニティ先行型、つまり、ありゆ環境保全とヒューマンスケールの快適さを求める、遊→住→職の並び方を有するアーバンリゾート開発にあります。
そして徹底した本物志向によって、消費ターゲットをアダルトに層に絞り込んだ大型観光立市政策を行い、名古屋市二一〇万人を含も約三〇〇万人の愛知県西部と岐阜県南部一〇〇万人の商圏人ロを誘致する様々なリサーチを実現していけば、東京ディズニーランドと長崎ハウステンボスの成功や、揖斐長良川対岸の長島温泉年間集客数三六〇万人の実績をみて、中京東海圏の「大人のオアシス」になれることは間違いありません。
続いて具体的に構築されるべき各施設を挙げていきます。
一番目は当然大規模マリーナです。
外海と水門でつながるヨットハーバーは、できる限り上流から淡水を引き込んで、他に列のない汽水の港にします。
又、ハウステンボスや南仏のポールグリモーのように駐艇場(水面)付きの戸別別荘群とホテル、市場やレストラン・バー類、オペラハウス音楽堂にコンベンションセンター等、高層建築はインテリジェントビルだけの最小限におさえ緑地公園ゾーンも広く、あくまで人が住みやすく設計すベきでしょう。
ともかく本格的なマリンリゾートの建設てすから、日本のみならず世界から建築およぴ経営のノウハウを持ったプロフェッシュナル達を招き、彼等に依頼し進めていくしかないと考えています。
さて土地が足りなくなりそうですが、ここで向こう岸に渡って、長島スパーランドの大観覧車に乗ってください。
そして最高地点から、桑名側を眺めてみれば、川越町の先端と長島町の現在地を結んだ線より上流に相当奥まった陸地が城南地先であることに気付くはずです。
実は平成元年の伊勢湾台風三十周年イベントで当時の中川市長は、建設省が城南沖に防災のための人工島を持っていることを公表しました。
位置や広さの詳細は未発表でしたが 大ざっぱに計算して一○○〜一五○ヘクタールの埋め立てが可能です。
将来中部新国際空港アクセス道路として、第二名神高速道路の外側にもう1本の海上道路を必要とする時もくるでしょう。
その時はこの人工島にインターチェンジができることになると思うのです。
資金的なものは建設省や運輸省、情報産業関係として郵政省と通産省、福祉関係の厚生省と労務省、自治省に文部省等の各関係省庁を総動員して公的資金を投入させ日本全国や外国の民間各社に呼びかけて出資と経営参加を募れば可能です。
前にシュミレートした水上交通路も超高速艇を使用して空港まで直結すれば更に利便性が高まります。
桑名の未来は至高のレベルに達しうる可能性をもった故郷に若い人が夢を持ち行動することだと提言します。
最後に、寺町堀の辺に住む和菓子屋のご主人が"ドプでもよいから水を返して"とつぶやくあの堀は、本当は宝物なのだと思います。
町の歴史が浅い北海道伊達市の友人は、寺町掘をみて"羨ましく、又もったいない。
伊達市の再開発は、道を一本つぶして水路を造れるかどうかにかかっている"とまで言い切りました。
アメリカではテキサス州のラスコリナスといつ内陸部に人工運河を引き、低層住宅で住環境を確保し、美しい水辺の町をつくった例があります。
街にはハイレベルな住民が移り住み、結果として企業誘致にも成功して二十一世紀には最も成功した都市開発の手本になるといわれています。
海国日本が海なくして存続できないように、水郷桑名も汽水域なくして生き長らえることはできないのです。
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